おなかへった

全部フィクションだから心配しないでね。

YTS40

 

  いつもと同じ玄関のはずなのにどうしようもないような違和感がただそこにあった。赤いハイヒール。

 

 月曜日の昼下がり、具合が悪くて早退した。一緒に住んでいる恋人は今はいつも通り営業部のエースとして市内を車で走り回っているはずなのに。今年の誕生日にプレゼントしたREGALの27.5のサイズの黒い革靴が乱雑に脱ぎ捨てられている。

 

 とくん。とくん。

 

 心臓の鼓動がはやい。頭がふらふらして体に力が入らない。これは夢なのかな、悪い夢なのかな。だとしたら早く覚めてしまえばいいのにな。胃の中でお昼に食べたカレーライスが暴れ出している。無理して食べなきゃよかった。そっと靴を脱ぐ。揃え直す暇はない。そうよ、きっと夢よ。大丈夫。私の恋人が私を悲しませることなんてするはずがない。もう同棲までして結婚手前でここまで二人仲良くやってきたんだから。

 

 

 とくん。とくん。

 

 

 そっとドアを開けると、ベッドに腰をかける恋人の隣に見たことがない若い女が座っていた。これは一体どういうことだろう。仕事中のはずの恋人と目が合う。女はなんだか私を見て微笑んでいるようにすらみえた。

 

 「え、なんで。」

 

 最初に言葉を発したのは誰だっけ。体の力が抜けて床に引き寄せられるように崩れ落ちてしまった。

 

 そういえば、普段早く家を出るのに、今朝は会議の時間が変更になったからとか言ってまだ着替えていなかったな。あれ、最近飲み会だって言って夜いないこと増えてたな。私が夜誘っても疲れてるからって寝ちゃうことが増えたな。夜の11時なんて遅い時間なのに誰かから電話かかってきたな。いつもコカコーラしか飲まないのに車の助手席に午後の紅茶なんて置いてあったな。点と点が線になっていく。あれ、私今までずっと騙されてた?もしかして。いや、そんなまさか。

 

「いやだなあ。ゆきちゃん、誤解だよ。」恋人はいつもと同じ調子で口を開く。「誤解....?」

黒いワンピースを着た女は、テーブルに置いてあるマグカップに手を伸ばしてコーヒーをすする。それは私がディズニーランドで買ってきた恋人とペアのものだ。どんな気持ちで彼はこの女を家に入れて私のマグカップにコーヒーを注いだのだろう。女を部屋に入れることに罪悪感はなかったのだろうか。たまたま今回見つけただけでこれで何度目なんだろう。ずっと大事にするって、もう両家に挨拶までしたのに。私あなたに6年も捧げたし、今年で33歳になるのに。人生の責任とってよ。幸せになるはずだった私の順当な人生を返して。

 

「ゆきちゃん。」彼が私の肩にふれた。「この子ね、俺の職場の先輩の娘さん。前話したでしょ、同じ部署で俺が入社した当初からずっと可愛がってくれておととい一緒のすき家に行った。」「遠藤さん?」「そう!遠藤さん!」

 じゃあ、なんでその会社の上司の娘がここにいるんだよ。

 

 「ゆきちゃんは、もしかして浮気だと思った?いやだなあ。俺が嘘をつける男に見える?ずっとずっとゆきちゃんだけだよ。ゆきちゃんは自信がないからなあ。こんなに顔も内面もかわいいのに。」

 怖い。普段は嬉しくて心から喜べる彼の言葉が全部偽物に聞こえて怖い。

 

 「ゆきちゃん。大好きだよ。ゆきちゃんが一番なんじゃなくて、そもそもゆきちゃんしかいないの。信じて。」

 小首を傾げてこっちらをじっと眺めてくる彼の顔を見つめ返す。

 

自分が愛している男が信じてって言っているのに信じないなんてそんなばかなことがあっていいのだろうか。ここまで仲良くやってきた。私は33歳。もう彼と結婚するって決めたじゃない。信じよう、うん。信じよう。今の私にできるのは信じることだけだ。大丈夫、私なら大丈夫。今回のことなんて忘れてまた元に戻れるよ。ねえ、信じたいから疑っていい?

 

 恋人の肩をつき離して、立ち上がる。ベッドの隣にある棚の上から二番目を開ける。6個入りのコンドームの箱がでてくる。昨日買って一度だけ使った。まだ5つある。うん、見なくてもわかるけど5つある。5つある、はず、きっと。大丈夫。

 震える手で箱を開ける。1、2、3、4。あれ、1、2、3、4。何回数えても数えても全部で4つしかなかった。数が合わない。1つ足りない。「あれ、数が合わないね。」

 

 「ゆきちゃん、許して。」恋人がそう呟いた気がしたけど、なんだかもう怒りの感情が濁流かのように押し寄せてきてしまって自分じゃコントロールできなくなってしまった。 女が口をつけたマグカップを手にとって高くあげる。手を離す。

 

おちる。おちる。おちる。

 

はじまった二人の暮らし。毎朝かかさず飲んだコーヒー。おそろいのマグカップ。休日のベランダには午後のお日様を浴びる広がる恋人と同じ匂いになった私の洋服。二人で育てたミニトマト。おそろいの指輪、おそろいの気持ち。これからもらえると思ってた恋人の名字。全部一緒と思ってた。ずっと大事にしてきた恋人への想いも一緒だと思ってた。おそろい。目に見えるものはおそろいに出来ても心の中まではおそろいにできないね。大事にするって、悲しませないってことじゃないの。

 

おちる。おちる。おちる。

 

どうしてこんな時に思い出すのは、幸せだったあの日々たちなんだろう。特別だと思っていなかった毎日ただただ繰り返していたものがかけがえのないものだったと気づく。

 

がしゃん。

 

どんなにゆっくり再生しても映像は終わる。マグカップの破片が散らばる。白いフローリングの床に黒い液体が広がっていく。誰もが黙ってそれを見る。大切にやさしくやさしく触ってきたのに、壊してしまうのはこんなにも簡単だ。

 

 

 

 「今までありがとう、さようなら。」

 男は何も言わずに、ただ立ち尽くしていた。決心した後の女は強いのよ。めそめそ泣くのなんて好きな男の前だけだよ。ついさっきまで大好きだったけど、もういいの。もういい。

 

 

たった5歩で玄関に着くほど狭いワンルーム。私の幸せの全てだったな。こんな日がずっと続くと思ってた。あーあ、勢いでこのまま帰ろうとしてるけど、同棲しちゃってるしな。私、どこに帰ればいいんだろう。このまま飛び出してどこへ向かえばいいんだろう。お気に入りのワンピースもこの家のタンスにあるままだし、ちょうど一昨日冷蔵庫を割り勘して新調したばかりなのに。

 

 赤いピンヒールが目につく。恋愛は命がけなんだからそんな靴じゃすぐに命を落とすよ、小娘。

 

 ドアノブを回る。がちゃりと重たい金属音がなってドアが開く。これからどこへ行こうかな。手始めに髪でも切ろうかな。