おなかへった

全部フィクションだから心配しないでね。

こうちゃん

 

 

 こうちゃんは嘘つきだ。ここはこうちゃんのお家なのに週の半分は帰ってこないし、シフト制の仕事で定時に上がれるはずなのに今日も3時間帰ってこない。時計の針は10時をさした。こんなに残業してるのに給料明細に記された残業代は3800円だった。シャネルのリップ一本すら買えない。あの人気俳優がCMしていたこうちゃんの大好きなウイスキーも買えないね。

 

今日は付き合って3ヶ月記念日だからこうちゃんの大好きな唐揚げを作ったのにもう冷めてしまった。男はいつだって食べ頃を逃して、口に入れた瞬間に他の料理のことを思い浮かべる。昔好きだったものとかまだ食べたことないものとか。今そこにないものに希望で胸を膨らませていつだって目の前にあるものを見ていない。私のことちゃんと味わって食べてよ。

 

 

 こうちゃんから連絡が最後に来たのはいつだっけ。昨日も帰ってこなかった。そうだ一昨日の朝から帰ってきてないし連絡だってきていない。 私と一緒にいる時はあんなにずっとパズルゲームかインスタ見てるのに。パズルゲームは18分前にオンラインになっているのに。こうちゃんがいつ帰ってくるかわからないから、予定を入れずまっすぐ家に帰るようになった。同僚も先輩も友達も全方向からの予定を断りすぎて誰からも誘われなくなった。こうちゃんが帰ってこないと私はこの部屋で永遠にひとりぼっちだ。この真っ白な殺風景のワンルームが私の世界の全てなのに。こうちゃんに会いたい。はやく帰ってきて。こうちゃんがいれば何もいらないのに。こうちゃん。

 

 こうちゃんからなんとなく連絡が来る気がして、ふとスマホに目を向けたが画面は黒く暗いままだった。やつれた自分の顔が映り込む。下からみた自分は今の自分より10歳老けて見えるらしい。このまま私ずっとこうちゃんのことを好きで好きでたまらなくて苦しいままおばさんになっちゃうのかな。35歳になった私をこうちゃんは変わらず愛してくれるだろうか。それともこうちゃんにも捨てられて、女の賞味期限を過ぎてしまった定めとして売れ残って一人で死ぬのかな。俯いていると涙が溢れてしまいそうだったので、ふと視線をあげる。そうよ、私不幸のヒロインになりたくて恋愛してるわけじゃない。こうちゃんの細くて白い背中に抱きつきたくて、ただ手を握っていないとどこかに行ってしまいそうなあの人の一部になりたかった。でもきっと叶わない。どうして自分が全てを捧げられる程愛した人ほど私のことを愛してくれないんだろう。

 

 何かに寄りかかっていないと立っていられないような気持ちになったので、二人で飲もうと奮発して買ったシャンパンの栓を抜く。ドラマではもっと花火の上がるような景気のいい音がしてコルクが外れるのに、しぼんだ風船みたいな音がしてなんだかうんざりした。グラスに注ぐのが億劫だったのでボトルに口をつける。ほのかな甘い香りと裏腹に辛くて炭酸の泡が口の中で弾けた。ボトルに惹かれて買ったけど、私この味あんまり好きじゃない。

 

 

 「ただいま。」振り返ると飲みかけの缶ビールを持ったこうちゃんが玄関で立っていた。彼が無造作に脱ぎ捨てた靴は6時40分を示す。「おかえり。」こうちゃんの元へ駆け寄るとずっと実体のないと思っていたふわふわしたわたがしみたいなこうちゃんが私を抱きしめる。このときだけは彼はここにいる。今日はバニラの香りがするんだね。ねえ、こうちゃん、私全部知ってるよ。大好きだから知らないふりしてるんだよ。馬鹿じゃないの賢いの。こうちゃんの嘘、いつだって本当にしてあげる。

 

 慌てて冷めたからあげをレンジで温めなおす。できたての料理をこの人に食べてもらえる日はくるのかな。私の全てはこうちゃんだけど、こうちゃんにとって私はなんなんだろう。私が注いだ愛情いつか返って来るのかな。私この人と一緒にいて幸せになれるのかな。

 

 こうちゃんは、何も言わずまた携帯でパズルゲームをしている。同じ色のゼリーみたいなぷよぷよをを4つ並べて消すやつ。一連鎖二連鎖三連鎖四連鎖。この悲しみも苦しみも寂しさも積み重ねたらいつか消えるのかな。私いつか全部大丈夫になって一人でいる時間も笑えるようになるのかな。

 

 

 シャンパンに手を伸ばしてグラスに注ぐ。一口含んだが、もう気が抜けていてほんのりとした辛味だけが口の中に広がる。私やっぱりこの味好きじゃないな。

 

 こうちゃんは相変わらずパズルゲームを続けている。彼の瞳に私は映っているのかな。

グラスをそっとテーブルに置く音が響く。こうちゃんがこっちを向く。そっと彼の名前を呼ぶ。一連鎖二連鎖三連鎖。全部消せるかな。四連鎖。