おなかへった

全部フィクションだから心配しないでね。

増えていくのはライターだけだ

 

 

 どんな瞬間も見逃すものかと私はテレビを眺めるふりをして男をじっと見つめる。ベッドの上に座っている私を放っておいて、男は灰皿のあるテーブルへ向かってしまう。抜け殻のように冷たくなってしまった彼は煙草をくわえて火をつける。すう、という彼の静かなたばこの煙を吸う音がさよならの合図だ。さっきまで体温を分け合ったのに、もう私の体も冷え切ってしまった。3時間料金で入るのに半分も一緒にいてくれない。月末の木曜日、彼は決まって私の街に日帰りの出張でやってくる。その時だけ、その時だけ、会える。月に一回だけ、私は彼の腕の中にいることが許される。この狭くて暗い窓のない部屋でしか同じ時間を過ごせない、一緒に食事すらしたことがない、免許書に載っているような生年月日も血液型すらしらない。知ってるのは彼の名前と営業の仕事をしていること、そして彼氏に振られて傷心した私を励ますためにセッティングされた合コンで知り合った時の明るくて場の空気をあったかくするにこにこしてそこにいる人みんなから愛されるあの姿だけ。

 

 

 立ち上がって、ベッドの下に無造作に脱ぎ捨てられた白のレースの下着に手を伸ばす。前にあった時に、白の下着が好きって言ってたから買ってみたのに見てももらえずに外されてしまった。ショートが好きって言ってたから髪の毛を切ったのに気づいてすらもらえなかった。どんなに彼の好みを身に纏っても、私本体は彼の好きになれない。

 

 

 ブラウスのボタンをひとつひとつ閉める。

 

あーあ、最初はあんなに優しかったのに。

 合コンの終わった後、酔いつぶれた私の方をそっと抱いてくれた。今日と同じホテルに泊まる。初めての時は二番目にランクの高い部屋だった。カラオケがついててお風呂もライトアップされてベッドだってもっともっと大きかった。服を着る前より先にラインを交換してまたねと手を振る。

 次の週の金曜日の夜にまた飲もうって呼び出されて二人で会ったのに我慢できないからとまた同じホテルに連れ込まれる。朝になると何事もなかったかのように服を着てまたねと手を振る。またね、またね、彼の言ってくれた言葉を反芻する、何度も。またね、またね。次の日程が決まってなくてもその言葉を信じてスマホの浮かび上がるこの男からの通知を毎日毎日じっと待つ。

 

 2週間後の火曜日の夜に呼び出される。彼からの連絡はいつだって唐突だ。いつ呼ばれてもいいように、毎日化粧を整えかわいい下着を身につけて女で居続ける。毎日、毎日。

ご飯も食べずにまた同じホテルに行く。3時間で部屋を出る。お風呂も光らないし、カラオケだってついていない部屋でただ体を重ねる。それだけ。たったそれだけでも幸せだった。一緒のいる時間は。

 

 毎日、毎日、彼からの連絡を待つ。私と一緒にいない時間は、どこのだれと会っているんだろう。私は彼にとって何番目の女の子なんだろう。この時間彼が他の女の子柔らかい所を探し当ててると思うと夜だって眠れなかった。

 

 どんどん会う頻度が減った。優秀な彼は本部に斡旋された今ではもう月に一度しか来てくれない。黙って服を脱がせて、やることをやっといて無言でたばこを吸ってしまう。お風呂で髪の毛を丁寧に洗ってくれる所が好きだった、かわいいかわいいと頭を撫でてくれる所が好きだった、お洋服を丁寧に脱がしてくれる所が好きだった、つま先に優しく口づけをしてくれる所が好きだった。もうあの時みたいに丁寧に触れてくれない。会えば会うほど冷たくなっていく。今の彼はただぼうっとたばこを吸っている。ああ、でも彼の口から一回も好きだって言ってもらったことなんてなかったな。

 

全部しめ終えたはずなのにブラウスの一番上のボタンがあまる。どこでかけちがえたんだろう。もしもっと早く気づいてたら、私、私今頃彼のお家でご飯を作って待ってたりしたのかな。

 

 男は、灰皿にたばこを押し付ける。ホテル名の印字のあるライターをポケットにしまう。この場所を出てもこのライターを使ってくれるのかな。そのたびに私のことを思い出したりするのかな。

「いくよ。」男は私に目線を送りすらせずに立ち上がって、支払いを済ませる。

 

 私は慌ててブラウスのボタンを締め直す。白いレースの下着をつるつるの柔らかいブラウスが隠してしまった。本当はもっと会いに来てほしい、ご飯を食べるだけのデートだってしたい。でも、でも、これからも全部上手に隠してたらまた会いに来てくれるのだろうか。来月末の木曜日もここに来るって約束してくれる?

ううん、やっぱりこのスーツに染み付いたたばこの匂いが取れる前にもう一度抱きしめて欲しい。